大地真央が宝塚時代トップ男役だったのは不人気アイドル活動歴のおかげ?


宝塚時代の大地真央さんのトップスター就任の裏には下級生時代のアイドル活動があった?

この記事では、大地真央さんの宝塚受験~宝塚音楽学校時代、そして宝塚歌劇団でトップスターになるまでの経歴を紹介しています。

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観劇経験ゼロで宝塚に

宝塚を目指す人の多くは宝塚歌劇団へのあこがれを持っているのではないかと思いますが、

大地真央さんはもともと宝塚ファンではなかったこと、それどころか入学まで宝塚の舞台を見たことがなかったことを各所で公言しています。

私はもともと宝塚ファンではありませんでした。

※産経ニュース2014年10月21日配信記事「女優・大地真央(2)独創性を目指して冒険も」より引用

宝塚へのあこがれというよりは、ほかに選択肢がない状況で決めた道。宝塚の舞台を見たことがないまま学校の門をくぐった生徒は、もしかしたら私くらいだったかもしれませんね。

※ゴールデンライフ2019年11月9日配信記事「輝く人110 大地真央さん」より引用

上記2つの記事および、産経ニュース2020年10月5日配信記事「【話の肖像画】女優・大地真央(64)(2)衝撃の舞台 女優の道へ奔走」によれば、

大地真央さんは義兄がやっていた素人劇団の舞台を見に行ったことや、実家の空き家を小池朝雄さんの劇団の合宿に提供したことなどをきっかけに女優に憧れるようになったそう。

元職業軍人の父親は娘の芸能活動の猛反対し少女雑誌のアイドル募集企画で最終審査に残った際も辞退せざるを得ませんでしたが、

友人から「女性だけの集団で軍隊のように厳しく安心して預けられる」と聞いた宝塚の受験だけは許してくれたといいます。

 

大地真央さんは中学4年の後半4か月間、地元淡路島から宝塚まで片道3時間をかけてバレエと声楽のレッスンに通い、宝塚音楽学校に一発合格

入学時の成績は49人中42番でした。

 

宝塚音楽学校時代

大地真央さんは1971年に宝塚音楽学校に入学しました。

ゴールデンライフ2019年11月9日配信記事「輝く人110 大地真央さん」および産経ニュース2020年10月5日配信記事「【話の肖像画】女優・大地真央(64)(2)衝撃の舞台 女優の道へ奔走」によると、

父の友人が「軍隊のように厳しい」と言っていた通り、宝塚音楽学校のルールが非常に厳しかったそう。

上下関係もきっちりしており、洗濯機からトイレやシャワーの使い方まで徹底されていたようです。

 

また、宝塚音楽学校のレッスンは歌・踊り・演技と多岐にわたりました。

バレエやピアノなどは入学時点ですでにハイレベルな人もおり初心者の大地真央さんには太刀打ちできませんでしたが、

全員ゼロからスタートのタップダンスや演劇の成績は良好だったそう。

寮の門限ギリギリまで個人レッスンを重ね、入学時に49番中42番だった成績は、2年後の学校卒業時には25番まで上昇。

宝塚音楽学校時代に幅広い芸事を経験できたことはその後の芸能生活を支える基盤になっている、と大地真央さんは語っています。

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宝塚歌劇団時代

宝塚音楽学校卒業後、大地真央さんは1973年に59期生として宝塚歌劇団に入団しました。

 

宝塚歌劇団での経歴

大地真央さんのwikipediaおよび宝塚歌劇団専門チャンネルタカラヅカ・スカイ・ステージHP掲載の「宝塚 DREAM FOREVER-100周年、そして、輝ける未来へ-#21「大地真央」」の番組紹介ページによると、

大地真央さんは1973年の星組公演「花かげろう」「ラ・ラ・ファンタシーク」で初舞台を踏み、1974年に月組に配属

当初から現代的でチャーミングな男役として注目を浴び、新人公演や役替わりなどの主演を重ねました。

1980年に月組の二番手男役になると、1982年の「愛限りなく」「情熱のバルセロナ」で月組トップスターに。

1985年に退団するまで新時代の洗練された都会的なスターとして人気を博しました。

 

下級生時代アイドル活動

上記のように大地真央さんは宝塚でトップ男役にまで上り詰めていますが、

大地真央さんのwikipediaを見ると1974年および1975年の宝塚の舞台仕事が極端に少ないことがわかります。

産経ニュース2014年10月21日配信記事「女優・大地真央(2)独創性を目指して冒険も」および同2020年10月6日配信記事「【話の肖像画】女優・大地真央(64)(3)異色の道…火が付いた「宝塚愛」」によると、

大地真央さんは入団2年目に劇団内のオーディションを経て約1年半の期限付きで宝塚に籍を置きながらアイドル活動をしていました。

1975年にリリースしたレコード「悲しみのアイドル」はさっぱり売れず、同期が舞台でよい役をもらっているにもかかわらず自分はデパートの屋上でミカン箱の上で歌っているなど苦汁をなめたこともありましたが、

この時期に宝塚から離れ、ファンでない人達が抱く宝塚のイメージを客観視できたことは後の糧になったよう。

下級生ながら「色眼鏡で見られることも多い宝塚のイメージを自分が変えていきたい」、と外部からの移籍の話も断り、一般人にも認めてもらえる新しいタイプの男役を目指しました。

目指すのは井の中の蛙(かわず)にならず、一般の人にも受けいれられる、時代の風を取り入れた男役です。それでいて誰のまねでもない、独創的存在を目指そうと、演技法も衣装も化粧も冒険をしました。

※産経ニュース2014年10月21日配信記事「女優・大地真央(2)独創性を目指して冒険も」より引用

宝塚に復帰した大地真央さんは「異端児」といわれながらも新しい男役を追求し続け、1982年に月組トップスターとなっています。

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