俳優の草刈正雄さん。
名前こそ純日本人ですが、その顔立ちはどこか外国人を思わせるところがあります。
また本人曰く幼少期には「バービー」と呼ばれていたそう。
この記事では、草刈正雄さんの経歴を紹介するとともに、ハーフ説や芸名説を検証します。
※2020年11月20日投稿、最終更新日はタイトル下参照
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※参照記事
・家庭画報2020年1月10日配信記事「草刈正雄という人生。かっこよくてチャーミングな、その素顔に迫る」
・女性自身2017年5月19日配信記事「草刈正雄 初めて語る亡き母の教え「年を重ねるほど素直に…」」
・産経新聞2020年9月27日配信記事「【ザ・インタビュー】運命切り開いた「出会い」に感謝 草刈正雄さん」
父親はアメリカ人
草刈正雄さんはアメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフです。
女性自身2017年5月19日配信記事「草刈正雄 初めて語る亡き母の教え「年を重ねるほど素直に…」」には、草刈正雄さんへのインタビューと共に以下のような文章が掲載されています(記事では「朝鮮戦争で戦死」とされていますが、後に2013年まで生存していたこと判明しています、詳細は後述)。
草刈は1952年、福岡県小倉市でアメリカ人の父とスエ子さんとの間に生まれた。しかし米兵だった父は、草刈が生まれる前に朝鮮戦争で戦死。兄弟もおらず、ずっと“母1人、子1人”の2人暮らしだったという。
特に若い頃はハーフらしさが強く出ているでしょうか。
今日は草刈正雄氏誕生日。70年代初期、資生堂のCMに現れた若き日のカッコ良さと言ったら。「神田川」「エスパイ」やドラマ「プロハンター」等で2枚目ぶりを遺憾なく発揮、その後もコンスタントに活躍し「真田丸」「なつぞら」では年輪を感じさせる演技で新しい魅力を打ち出したのはさすがです。 pic.twitter.com/cNSHHJ8y1n
— 阿乱隅氏 (@yoiinago417) September 5, 2020
追記:父親について(2023/8/14)
2023年8月14日放送の「ファミリーヒストリー」(NHK)で、朝鮮戦争で戦死したとされていた父親が2013年まで生きていたことが判明しています。
米軍所属だった草刈正雄さんの父ロバート・トーラーさんは朝鮮戦争から福岡県の築城基地に戻った後、妊娠中だった草刈正雄さんの母親を日本に残し一人アメリカへ帰国(番組では職務の都合とされていました)し、西ドイツで従軍。
後に再婚し退役すると婦人服店を開業するなどし、2013年に亡くなったようです。
番組の取材を受けたロバートさんの家族(母姉甥が登場、再婚相手との子供の有無には触れられず)は、ロバートさんの西ドイツ従軍中に草刈正雄さんの母親から子供の写真付きの手紙が届き、本人に代わりいくばくかのお金を添えて返信した旨話していました。
草刈正雄さんは母親から「父親は朝鮮戦争で死んだ」「写真は全部焼いた」と聞いていたそうですが、母親は生存を知っていたのでしょう。
番組で紹介された戸籍には父親の名はなく草刈正雄さんは婚外子となっていました。
※父親に関するより詳細な情報はこちら
幼少期~デビューまで
草刈正雄さんは1952年に福岡県小倉市で生まれました。
父親がアメリカ人、母親が日本人であることは先述の通り。
米兵だった父親が朝鮮戦争で亡くなった母子を残して帰国した後、母親は日用品の卸売店で働きながら女手一つで一人息子の草刈正雄さんを育てました。
母親は典型的な九州の女で草刈正雄さんに対しても厳しかったことを本人も語っています。
今思えば、『私が父親代わりにならなきゃ』という思いもあったのかもしれませんね。
※女性自身2017年5月19日配信記事「草刈正雄 初めて語る亡き母の教え「年を重ねるほど素直に…」」より引用
幼少期の草刈正雄さんは先生が家までやってきて「学校をやめてくれ」と言われるほどヤンチャで母親を困らせていましたが、
中学生になると「早く一人前になりたい」と新聞配達のアルバイトで家計を助け、中学卒業後地元の有名企業に就職しました。
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しかし何をしでかしたのか草刈正雄さんはこの会社を3日でクビに。
結局定時制高校(wikipediaによれば福岡県立小倉西高校の定時制)に通うこととなりました。
全国大会レベルの強豪軟式野球部に所属し、草刈正雄さん自身も高校1年生の時に神宮球場でプレイするなど学校生活は充実していたようですが
それ以外の時間は家計を助けるためにアルバイトに明け暮れており、
昼間は訪問販売や文房具の配送のアルバイト、夕方は学校、夜はバーやスナックでアルバイトというハードな生活を送っていたそう。
睡眠時間を削って稼いだアルバイト代は全て母親に渡していたといいます。
転機は17歳のとき。
アルバイト先のスナックのマスターにモデルの仕事を薦められたことでした。
モデルを志す、みたいな野心があったわけではまったくなくて、お金につられた、ただそれだけでした
※家庭画報2020年1月10日配信記事「草刈正雄という人生。かっこよくてチャーミングな、その素顔に迫る」より引用
草刈正雄さんは17歳で上京し、翌年(1970年)資生堂のCMに出演したことで瞬く間に全国区の知名度を獲得しました。
“草刈正雄”は芸名or本名?
草刈正雄さんはデビュー当時から「草刈正雄」名義で活動していますが、
「草刈」という苗字が珍しいこと、アメリカ人とのハーフであり幼少期には母親から「バービー」と呼ばれていた旨本人が語っていることなどから、
「草刈正雄」は芸名なのではないか?と考える人もいるようです。
しかし、どうやら「草刈正雄」は本名のよう。
名字については草刈正雄さんの第三子(次女)は草刈麻有名義で芸能活動をしていること、
また、第一子(長女)の紅蘭さんは2018年10月17日放送の「梅沢富美男のズバッと聞きます!」(フジテレビ系)に出演した際、
事実婚を選んだ理由として自分が結婚して名字がかわると草刈姓を継ぐ人間がいなくなることを挙げていたこと、
などから。
名前についてはAERA.dot2020年8月18日配信記事「自宅で突然亡くなった母に泣きながら…草刈正雄が明かす「僕の原点は、母」」で
母こそ「バービィ」は早々にやめて「マコちゃん」とか「マコ」と僕を呼んでいましたが
と草刈正雄さん自身が語っていることから推測できます。
ちなみに、名字由来.netによると、草刈姓の人数ランキングは3008位。全国に約4400人の草刈さんがいるそう。
バレリーナの草刈民代さんもその1人です。
デビュー~現在まで
上京後ほどなくして資生堂のCMに抜擢されたことで一気にブレイクした草刈正雄さん。
CMで『あの人誰?』と注目され、女の子の雑誌に出てとか、レコード出さないかとか、チョイ役でドラマに出ないかとか。ものすごいラッキーボーイだった」
※産経新聞2020年9月27日配信記事「【ザ・インタビュー】運命切り開いた「出会い」に感謝 草刈正雄さん」より引用
実は写真に苦手意識を持っていた草刈正雄さんの仕事は次第に俳優業へとシフトします。
1974年に「卑弥呼」で映画デビューを果たすと翌1975年にはエランドール賞新人賞を受賞。
20代から30代にかけて多くの大作への出演し主演も多数経験しました。
30代になると徐々に3番手4番手の役が多くなりますが、
自分には学歴もないし他の仕事のセンスもないからこの世界でなければ生活できない、と必死に食らいつき舞台やコメディに光明を見出します。
そして60代で挑んだ2016年の大河ドラマ「真田丸」(NHK)で主人公真田幸村の父・真田昌幸役で再び大ブレイク。
以後第二の全盛期といっても過言ではない活躍をしています。
「60過ぎて、自分の身にこんなことが起きるとは、思ってもみませんでした。あきらめないでよかった」
※家庭画報2020年1月10日配信記事「草刈正雄という人生。かっこよくてチャーミングな、その素顔に迫る」より引用
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